いきなりですが、
私は、私立単願を狙うことに反対の立場だ。
理由は簡単で、
生徒が真剣に勉強する唯一のチャンスを奪うから。
先日書いたように、私は「冬が一番生徒が伸びる時期だ」と考えている。
「普通」の生徒は、特に何の目標も危機感もなく、ただ日常をやり過ごしている。
受験に対する「当事者意識」など微塵も持ち合わせていない。
中3の2学期になって、私立の個別相談会に行き、初めて具体的に受験というものを意識する。
今の自分の成績では自分が行きたい学校の「確約」がもらえない。
そういう「現実」に直面して初めて、ようやく少しだけお尻に火が付く。
しかし、私立単願という制度は不完全だ。
なぜなら、「確約」を取ってしまえば、後は何もしなくても合格してしまうから。
せっかく「本気」になり始めたのに、あっという間に火が消えてしまう。
非常にもったいない。
というか、私からすれば「努力すること」から逃げているようにしか見えない。
楽な道、楽な道を選ぼうとするあまり、自己を向上させる機会を自ら捨ててしまっているように見える。
(まあ、「結果が全て」であると考える人にとっては、高校名や大学名が重要なのでしょうが、私はそこに至る過程こそが重要だと考えているので…。
同様の理由で、「倍率が低い高校を選んで受験する」という行為もあまり好ましいこととは考えていない。)
人生で初めて本気になれた時に、精一杯の努力をすることは、その後の人生に必ずプラスの効果をもたらす
と私は考えている。
本気になって、長期的な視野に立ち、計画を立てて、結果が約束されていない目標に向かっていく。
当然、「分析」「思考」「逡巡」「克己」…など、様々な要素が結果を左右するだろう。
そのプロセスがかけがえのない「財産」となるのである。
そのプロセスを奪うような如何なる制度、及び行動も私は是としない。
(あくまでも個人の感想です。世の中には色々な価値観があってよいと思います。「私には」合わないと考えているだけです。)
そのような理由で、当塾では公立高校受験を念頭に置いて、最初から5科目を指導することを前提としている。
(ちなみに、大学入試の「到達度テスト」は北辰テストの確約制度に非常に似ている。
その意味でも最悪の入試制度改悪だと、個人的には思っている。
なんか「単なる知識の暗記じゃない…◎✖△◇??」などと意味不明なことも言ってますけどね…。
今の入試問題見たことないんでしょうね。
文科省は「ゆとり教育」の反省も分析もしていないんでしょうか…。)
ついでに言うと、中学受験にも反対の立場です。
中学受験は、本当に頭の良い子だけが手を出すべきものだと考えている。
というのも、中学受験の問題は難しすぎて「普通の子」にはまず「解けない」し「理解できない」。
(そもそも、「理解しよう」という意思がない子も多いですが…)
「理解できない」問題を「解こう」とすると何が起きるか?
「とりあえずよくわからないけど、こうやれば答えが出るんでしょ?」
などと言って、意味も分からずそれっぽい「答えだけ」を出す癖がついてしまう。
完全に思考停止の人間が出来上がる。
昔、国立開成(と早慶)だけを目指す専門塾で教えていた時、「中学受験組」は一発で見分けがついた。
勿論、前述のようにハイスペックの生徒には中学受験体験はプラスに働く。
しかし、能力的にそれほど高くない子が中学受験をすると、本当に何も考えない子が出来上がってしまう。
驚くべきことに、中受経験者の生徒は問題を解くときに「迷う」ということが全くない。
「自分の答えがあっているのか?」「どのように解いたらよいのか?」など、一切お構いなしに全く躊躇せずに答案用紙を埋めていく。
(これは最初に見たとき、本当にびっくりしました…)
問題を飛ばすときにも、躊躇というものが一切ない。
はっきり言って、ホラーです。
(まあ、これに近いことをしている生徒が当塾にもいるところが笑えないところなんですが…)
実はこの記事は、とある親御さんから「お子さんの勉強にどこまで口出しをするべきか?」という御相談を頂いたことで、ふと思ったことを書いてみた。
(その節は、要点を得ないことを長々と話してしまい申し訳ございません…)
私自身は、「強制」することや「管理」することには、寧ろ反対の立場ではない。
(私自身、必要に迫られなければ何もしない人間ですし…)
初めは無理やりやらされていたことでも、いつか子供の心に火が付く可能性はある。
というか、何もやっていない状態では「変化」すら起きないだろう。
無から有が生まれることは極めて稀だ。
その意味でも、外部から適度の圧力をかけ「行動」に落とし込ませるということには十分価値があると思う。
0コメント