昨日、久しぶりに中1の授業で少し生徒を叱ったのだが、
未だに形式主義的な「他人に見せるためだけの勉強」から脱却できていない生徒がいる。
これは中3・中2の生徒も同様なのだが。
何度も言っているが「形式主義」と「権威主義」は勉強にとって害悪でしかない。
(本日は「権威主義」の害悪については言及しないが…)
例えば、
自分が今解いている問題を完璧に解答までの筋道が見えた上で解いているのか?
それとも、
あやふやな部分があるまま解いているのか?
その位の判断はつくはずだ。
もう少し次元を落として言うならば、
今自分が書いている単語のスペルがあっているのか?
くらいの判断はつくだろう。
(というか、今自分が書いている単語のスペルが100%の確率であっているのかどうか位のことが判断出来ないのであれば、勉強する意味はないのではないかと思う)
そういった場合、すぐにその場で自分の答えが合っているのか?を確認するように常に伝え続けているのだが、未だにそんな基本的な事すら実行に移そうとしない生徒がいる。
そして、平気な顔で間違った答えに丸を付けている。
気は確かなのだろうか?
自分は100%確実にあっている!
自分は絶対に間違っていない!
もし間違ってたら、・・・!
それくらいの自信がないのならば、その場ですぐに真偽を確認し、修正を施した上で次の問題に備えるというのが「普通」だと思うのだが、「形式主義」で凝り固まった人間にとってはどうでもよいことに感じられるようだ。
まずは、そういった意識を変えていかなければならないだろう。
ヌル過ぎる。
まあ、ハッキリ言って上記の話は少々レベルの低い話ではあるのだが、
問題を解いている際に「何がこの問題のポイントとなっているのか?」といったメタ的な視点がないので、平気な顔で間違った答えに丸を付けてしまうし、自分がやっていることの筋道が正しいのか?といったことも一切気にならないのだ。
例えば、
私「その問題大丈夫?わかってる?」
生徒「まだ丸付けてないんでわかりません。」
私「・・・」
未だにこういったやり取りを繰り返してしまっている生徒がいる。
上記のやり取りで、私は「答えがあっているかどうか?」を尋ねているわけではない。
私はプロセスの話をしているのだ。
数字があっているかどうかの話はしていない。
少なくとも自分が解いている段階で、自分が辿っている筋道が正しいのかどうか?位の判断は出来てもらわなければ成長は望めない。
「正解」が見えるだけでは不十分だ。
「問題」が見えるレベルの力をつけなければならない。
(この「問題が見える」というのは「作問者の意図」を感じ取る力でもある。様々な問題に数多く当たっていけば、どういったパターンの「引っ掛け」や「ミスリード」が存在しているのかがわかる。そして自分が「どのような間違いを犯しやすいのか?」も見えてくる。)
その前提として、初歩的なことで躓いていては飛躍できるはずがない。
そのためには圧倒的な「量」をこなす必要がある。
現在、中1でも中2でも中3でも演習スピードが遅く十分な問題量をこなせていない生徒がいる。
勉強が苦手な生徒により顕著な傾向だ。
今まで通り「小テスト」の「再テスト」だけでなく、最低限終わらせなければ次に進めない事柄に関しては、授業外の時間を使って演習をしてもらうしかないであろう。
授業内での演習のノルマを決めて、こぼれた生徒を拾っていくスタイルにシフトしていきたい。
来塾時間が多くなる生徒もいるかもしれない。
「不器用な」生徒には「時間」が必要だ。
現時点で、小テストの再テストなどにキチンと来ない生徒がいるのだが、正直、塾として責任をもって指導出来ないと考えている。
また生徒が減ることになりそうだが、まあ、仕方ないであろう。
「生徒に真剣に勉強をしてもらう」ということを掲げている限り、それが出来ないのであれば塾をやっている意味はない。
・・・と、現実に直面している課題についてつらつらと書いてきたが、非常に嬉しいこともあった。
正直、かなり勉強が苦手だと感じていた小6の生徒が、色々な単元が混ざった総復習問題で、しっかりと問題の意図を読み取ってキチンと式を立てられるようになっていた。
非常に大きな進歩だと思う。
仮にうちの塾がなくなり、他の塾に行っても大丈夫なのではないか?と感じさせてくれるほどの成長ぶりだ。
(良いのか悪いのか?よくわからない表現ですが…)
まだまだ国語力に不安はあるが、生徒が着実に前進していることを感じた日でもあった。
そして、もう一人の生徒は文字式の利用に入った。
これから面白くなってきそうだ。
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