私はブログでちょくちょく生徒を批判するような記事を書いているのだが、サービス業としてみれば完全にアウトであろう。
しかし、以前にも述べた通り、「人に何かを教える」という行為は「資本主義」が生まれる遥か前から存在している行為であり、原始的な意味においては、「人に何かを教える」という行為は「資本主義」の範疇の外にあると私は考えている。
その意味においては、「資本主義」の法則から外れた思考回路を持つべきフェーズが存在すると考えている。
例えば、私が医者だったとして、自分では治すことが出来ない病気を抱えた患者さんが来院したとしよう。
その時に私が「売上」のことを考えて、出来もしない「診察」をして「治療」を施すことは果たして正しいことなのであろうか?
「資本主義」的に言えば正しい。
「サービス」を提供し「対価」を得ることが「資本主義」の本質だからだ。
患者さんも「自分から」こちらを「選択」して来たのであって、その相手に「サービス」を提供し「対価」を得たとしても、私としては何も咎められることはないであろう。
その際、勿論、私は「全力」で「治療」に当たることは言うまでもない。
私が「全身全霊」で働いている姿を見れば、寧ろその患者さんは私に対して好印象を持って「感謝」してくれるかもしれない。
しかし、「資本主義」の枠組みや「印象」といった概念から少し離れて考えてみた場合はどうだろうか?
「出来ない」とわかっていることを引き受けることは、果たして良いことなのだろうか?
「出来る」人が他にいる可能性があるのならば、そちらに託すことが誠実な対応なのではないだろうか?
「資本主義」においては「イメージ」が重要になる。
ほとんどの「サービス」は「ブランディング」によって「印象操作」が施され「見た目」を整えた上で提供されている。
しかし、私は「中身」の伴わない「サービス」の提供は有害であると考えている。
今後の人生に影響を与える可能性のある「サービス」ならば尚更だ。
と、同時に、「サービス」の提供者は真の意味で「謙虚」であるべきだとも考えている。
「出来ない」ことは「出来ない」とはっきり伝えるべきであろう。
たとえ、私が「全身全霊」で三日三晩寝ずに加持祈祷を行い、真冬の深夜に行水を行ったところで効果が無いものは効果が無い。
こちらの「自己満足」で相手の「可能性」を潰すことは断じて慎むべきであろう。
これは「塾」としても同様だと私は考えている。
自分では成績を上げてあげられる可能性が極めて低いと感じているのならば、その旨を告げて別の選択肢を相手に提示してあげることが、本当の意味での「誠実さ」だと考えている。
私の一番の強みは、「わかりやすく教える」ことが出来る点にある。
正答率の低い「難問」や、なかなか理解することが難しいとされている考え方であっても、生徒に「わかる」ように伝えられることが私の強みだ。
そして、それを定着させる術を持っていることも。
一方において、「生徒のやる気を出させる」といった類の話は、私は自分の強みとは捉えていない。
というか、率直に言って「やる気」がどうのという話は極めて詐欺的な要素を多分に含んでいるとさえ考えている。
以前にも述べた通り、☟「やる気」は「行動」から生じるものであり、「やる気」のない中学生に「やる気」を起こさせるには、「強制」的にやらせるしかないというのが、私の見解だ。
そうであるならば、塾として「強制力」を持った「場」を作り上げ、それを守り発展させていくことが私の責務である。
そんな風に考えている。
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